第1章 仏教生誕の地インド・カンボジア
仏教生誕の地・インドは、古代から幾多の宗教・哲学を生み出し、独自の文化を形成した。この文化は東南アジアを中心に、海洋貿易の隆盛に伴い移植されていった。
カンボジアに栄えた古代王朝もその一つで、紀元1世紀以降、間断なくインド文化が流入していった。12世紀には、ヒンドゥー教を基底としながらも仏教文化の影響も受けながら、世界に名高いクメール王朝の都・アンコール遺跡群が造営された。
1969年、平山画伯は念願かない初めてインドの地に降り立った。さまざまな仏跡をめぐるとともに、ヒンドゥー教やイスラム教といったインド文化を目の当たりにした。
カンボジアには1970年に訪れ、長期の内戦期間を経て1991年に再訪するまで、21年の歳月を要した。戦乱に疲弊したカンボジアの人々に、自らが受け継いだ文化の高さを再認識させ、遺跡の保護・修復の重要性を訴えた。また、日本の人々にもその重要性を伝えるためにカンボジアの風景を描いた。その一部が本展にも出品されている。
《タージ・マハル》1998年
第2章 東西交流の道 ~西アジア・中央アジア・中国~
シルクロードはユーラシア大陸全土を人間の血脈のごとく縦横無尽に走る道であり、様々な民族、生業の人々がこの地を行き交った。古代から中世に至る人類の長い歴史においてその先進地であり、幾多の歴史の舞台ともなった。
平山画伯は日本文化の源流、特に仏教東漸の道を自らの足で歩くことをライフワークとした。その旅は1966年のトルコ・カッパドキアの洞窟修道院壁画模写に始まり、アフガニスタンのバーミヤン遺跡、パキスタンの古代仏教遺跡、イランのペルセポリス、オリエント文化が花開いた西アジアから中央アジアを経て、日本文化に直接的な影響を与えた中国に至るまで、10万キロにも及ぶ。
多様な宗教・民俗の勃興した土地を訪れ、この体験をもとに大作を発表してゆく。これらの作品は、東京藝術大学での日々の公務に加え、中国をはじめ多くの国々との文化を通じた友好活動、文化財の保護や育成活動など多忙の日々を縫いながら、延べ150回以上にも及ぶスケッチ取材をもとに描かれた。
《月下シルクロードを行く》2001年
第3章 仏教文化の精華 ~日本・韓国~
インドから中央アジア、中国を経て、朝鮮半島からもたらされた仏教は、日本の穏やかな環境や習俗と相まって独自の発展を遂げた。
インド・アジャンタ石窟の壁画が、アフガニスタン・バーミヤンの石仏、中国・敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)、そして雲崗(うんこう)・龍門の石窟寺院を経由し、長大な旅程と時間を経て法隆寺壁画へ影響を与えた例など、枚挙にいとまがない。
飛鳥時代の人々が、仏教を根本に国家の安寧を願い建立した法隆寺、中国・唐の先進的で勇壮な仏教文化が移植された薬師寺など、仏教はシルクロード終着の地に確かな足跡を残し、日本文化として爛熟していった。
平山画伯は、そういった日本文化の特性をよく理解し、その源流を求めて旅を重ねたが、潤いに満ちた故国の風景や寺院を好んで作品の主題とした。
《法隆寺》1991年
第4章 大唐西域画 ~玄奘三蔵、求道の軌跡~
〈大唐西域画〉制作の構想は1978年から始まった。奈良・薬師寺の「玄奘三蔵院」の建立にあたり、平山画伯と高田好胤管主との間で「薬師寺は建物で玄奘三蔵を顕彰し、平山画伯は壁画で顕彰する」という約束が取り交された。
以来、平山画伯は玄奘三蔵の足跡をつぶさに辿りながら、可能な限りの現地取材を行った。その際に描かれたスケッチの枚数は7千枚以上に及ぶという壮大なものである。
そして2000年12月31日、薬師寺の「玄奘三蔵院」では〈大唐西域壁画〉の入魂開眼法要が営まれた。平山画伯が構想を含め20年以上もの時間を費やし、その膨大な訪問地から7つの場面を選び描いたものである。
その画面には玄奘三蔵の出発点の長安(第1場面)から始まり、ナーランダ(第7場面)までをめぐる地理的な流れのほか、1日の時間の移り変わりが表現されている。
この壁画は「玄奘三蔵院」の本尊であり、期間を限定して公開されることとなっている。そのため、より多くの人々に見てもらいたいという画伯の強い願いのもと、各場面を絵画作品として50号に収めて描かれた作品が、本展に出品されている〈大唐西域画〉である。
《ナーランダの月 インド》2007年






