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2021年9月22日

村上春樹ライブラリーが早大に開館、「文化の発信基地になってくれたら」 

作家の村上春樹さん(72)が母校の早稲田大に寄贈・寄託した書籍やレコードなどの資料を収蔵する国際文学館(村上春樹ライブラリー)が10月1日に開館するのを前に報道関係者に公開され、村上さんらが22日、同大で記者会見した。村上さんは「新しい文化の発信基地になってくれたらいい。都会の真ん中という地の利を生かして、大学と外の世界が混じりあえるような場所になれば」と期待を寄せた。

早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)の階段本棚 =17日、東京都新宿区の早稲田大学(桐山弘太撮影)

早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)の階段本棚
=17日、東京都新宿区の早稲田大学(桐山弘太撮影)

早稲田キャンパス内の演劇博物館に隣接する校舎を改築した地上5階・地下1階建ての施設(総面積2147平方メートル)では、外国語版を含めたすべての村上作品や関連書など約3千冊が閲覧できる(当面は新型コロナウイルス対策で入館を制限)。村上さんが早大在学中に夫婦で開業したジャズ喫茶「ピーター・キャット」で使っていたピアノや椅子、レコードも並び、現在の書斎を再現した部屋も。イベントに使う交流スペースや学生が主体となって運営するカフェ「橙子猫(オレンジキャット)」も備える。

早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー) B1のカフェ<br>=17日東京都新宿区の早稲田大学(桐山弘太撮影)

早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー) B1のカフェ
=17日東京都新宿区の早稲田大学(桐山弘太撮影)

村上さんは「物語を拓こう、心を語ろう」という同館のコンセプトに触れ、「コロナ禍で多くの若い人が未来に対して薄暗いビジョンしか抱けていない気さえする。でもどんな形でも理想はあるべきで、良質な物語のサンプルを示していくのが小説家の役割」とも語った。

早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)の外観=17日、東京都新宿区の早稲田大学(桐山弘太撮影)

早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)の外観
=17日、東京都新宿区の早稲田大学(桐山弘太撮影)

施設の設計は建築家の隈(くま)研吾さんが担当。費用は早大の卒業生で衣料品店ユニクロを展開するファーストリテイリング会長兼社長の柳井正さんが全額寄付した。会見に同席した隈さんは「(村上文学の特徴でもある)現実と非現実のはざまのような世界を建築で表したかった」。柳井さんは「日本と欧米、アジアの人たちが一緒になって新しい文学、文化を作り発信する場所になってほしい」と語った。

入館料は無料で、事前予約が必要。予約などの詳細は国際文学館のサイト( https://www.waseda.jp/culture/wihl/ )で。


■「書店のないサハリンで僕の本が」 村上春樹さんが秘話

記者会見でフォトセッションに応じる(左から)村上春樹氏、柳井正・ファーストリテイリング代表取締役会長兼社長、建築家の隈研吾氏=22日午後、東京都新宿区(矢島康弘撮影)

記者会見でフォトセッションに応じる(左から)村上春樹氏、柳井正・ファーストリテイリング代表取締役会長兼社長、建築家の隈研吾氏=22日午後、東京都新宿区(矢島康弘撮影)

10月1日開館の早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)に自身の書籍やレコードなどを寄贈・寄託した作家の村上春樹さん(72)。母校でもある早大で22日、記者会見に応じ、同館への思いや学生時代の思い出などを振り返った。村上さんの会見での主なやりとりは以下の通り。

「村上春樹ライブラリーが設置された早稲田キャンパスの4号館というのは、僕が学生だった頃、しばらくの間学生に占拠されていました。1969(昭和44)年、今から52年前ですか。4号館の地下ホールで山下洋輔さんがフリージャズのライブをやったんです。

僕はそのライブには行けなかったんですが、コンサートのドキュメンタリー番組を作った田原総一朗さんによると、民青や革マル派とか中核派とか、そういう仲の良くないセクト同士がみんな一つの場所に集まって、ケンカもせずに呉越同舟で山下さんの演奏に聞き入っていたという話です。

そういう建物を今回、丸ごと使わせてもらえるのはありがたいこと。非常に興味深い巡り合わせだと思うんです。山下洋輔さんにもいつか、同じ場所でピアノをガンガン弾いていただきたい...と思っています。

その当時僕ら(学生)は『大学解体』というスローガンを掲げていました。でも、もちろんうまくいかなかった。僕らが心に描いていたのは、先生が教えて生徒が承る―という一方通行的な体制を打破し、もっと開かれた自由な大学を作っていこう、という思いだった。理想としては、決して間違っていなかった。ただやり方がまずかったというだけで。

僕としては、この村上ライブラリーが早稲田大学の新しい文化の発信基地になってくれればいいな、と思っています」

――施設の感想や今後の展開について

「僕が死んでからこういうのは作ってもらえるとよかったんですよね(笑)。ただ、いろいろと事情があり、生きているうちにできてしまって、すごく緊張しています。もし僕が犯罪を犯したら、すごく困ったことになりますよね。早稲田大学にも申し訳ないし。でも、生きているうちにできたからには、できるだけ協力して、僕のイメージする環境を作っていきたいと考えています」

――同館に寄せた「物語を拓(ひら)こう、心を語ろう」という言葉への思いを

「5分くらいで作りました。僕は小説家なので、毎日物語を作っています。でもね、小説家だけじゃなくて、人というのは日々、自分の物語を作り続けているものです。意識的にせよ無意識的にせよ、人は自分の過去・現在・未来を物語化しないことには、うまく生きていけない。

でもね、今の若い人は自分の未来について、ポジティブな物語をうまく作れているんだろうか、ということを最近よく考えます。コロナ禍という特殊な今の状況下で、多くの人が自分の未来について、どちらかというと薄暗いビジョンしか抱いていないんじゃないかな、という気さえします。

また50年前の話になりますが、僕らの学生だった頃は、まだ日本も右肩上がりだったし、頑張って努力すれば世の中だんだん良くなっていくんじゃないか―という漠然とした共通認識があった。そういう楽観的な社会観や理想主義はもう戻ってこないんじゃないかと思いますが、それでもいつの世にも、どんな形でも、そういう理想みたいなものはあるべきだと思う。そういう良質な物語というか、『ほら、こういうものがあるんだよ』というサンプルを示していくのが、僕ら小説家の役目だと思います」

――日本文化を世界に発信する重要性について

「文化の発信といわれてもね、なかなか本人としてはよくわからない。ただ一生懸命働いているだけで。ただ、僕は10年くらい前にサハリン(樺太)に行ったことがありまして。今は知りませんが、その頃のサハリンは書店が一軒もなかった。どこでみんな本を買うかというと、公園や市場に行商の人が来ていて、テントに本を並べて売っているんですよ。フェリーか何かで本を担いで持ってきて、並べて売っているんです。その中に僕の本が結構ありまして、びっくりしました。重い思いをしてサハリンまで本を運んできてくれるのが、すごくうれしかったです。一種の感動だったし、本を書いていてよかったと思いました。そういうことって大事ですよね」

――施設を設計した隈研吾さんが村上さんの物語を「トンネル構造」と例えた感想と、翻訳文学の可能性について

「現実の世界と異次元の世界を行ったり来たりというか、最後には自分がどっちにいるのか分からなくなる...というのが僕の小説の一つの在り方。それをトンネルという形で捉えられるというのは、確かにそのとおりかなと思います。僕はいつも洞窟とか井戸とかトンネルとか、そういうものに興味があるみたいです。

僕は小説家ですけど、小説を書きたくないときには小説を書かないんです。そういうときはだいたい翻訳をしています。だから効率がいいというか、とても健全な生活を送っています。翻訳はもう四十何年やっているんで、少しずつうまくなってきている。それは僕自身にとってすごくうれしいこと。というのは、翻訳は技術ですから。技術は磨けるんです。小説というのは技術だけじゃなかなか磨けないところがあります。

僕の小説を訳している海外の翻訳者はたくさんいるんですが、そういう人たちとはなるべく連絡を取って話し合って、仲良くやるようにしています。翻訳というのは本当に大変な作業だし、報われなくちゃいけない。(同館も)そういう翻訳者たちをバックアップする機能を備えていきたいと思います」

――半世紀前、どういう学生だったのか

「僕らのころはストライキなどで授業があまりなかった。だから、大学の外で学んだことの方が多かったような気がします。

愛校心も特になかった。(校歌の)『都の西北』ってありますよね。♪都の西北(せいほく)、早稲田の森に...。その後(の歌詞を)知らないんですよ。(最近まで)野球の応援歌だと思っていました。あんまりいい学生じゃなかった。でも、早稲田というのは、あんまりいい学生じゃなくてもそれなりに受け入れてくれるようなところがありまして。その辺は気が楽でした。

この前、文学部の入学式であいさつをしたんですが、学生がみんな小ぎれいでびっくりしました。僕らのころは本当に汚くてね、入学式であいさつしたら何か飛んでくるんじゃないか...と思うくらいで。でも、今はみんなおとなしくて礼儀正しくて小ぎれいで、感心しました」

(産経ニュースより)